時代小説こそSF的である。
まず。
SFとは「発明を楽しむ物語」だ。
その「発明」とは、
設定のオリジナリティでも、
既存のガジェットの奇抜な使い方でも、
現実世界へのアプローチでも、電撃的な文体でも、
一行のセンス・オブ・ワンダー、
ワンカットのスペキュレイティヴ。
そこに「世界(既に在るもの)」を改変するだけの「新性」が観たいのだ。既知のものがその意味を変換される、価値から価値を若しくは無価値から無価値を奪う、そういったような「未知との遭遇」を、「SF」と呼ぶ。
ただし、それはなにも「全く新しい」必要はない。むしろ大凡考え得るキャラクター・設定・叙述方法etc...ありとあらゆる「物語資源(リソース)」が化石燃料よろしく枯渇しつつある現代においては、既存のものを「どう語るか」、こちらに重きを置く時代になっている。もはやオマージュが一般化され過ぎて、効果が薄れているように。物語に関しては循環型社会が既に達成されているのだ。
故に。
まさに「既存の」史実と史実(しかもそれは既に虚実入り混じる「物語」の性質を帯びているのを忘れてはならない )を結び付け、そこに新たな意味を、人物の想いを社会の本質を普遍不変の原理を、つまり「物語」を描き出そうとする。この「既知」という本来「無価値」であるものから「未知」という「価値」を産み出す創造性。そしてその種である「歴史」は日々拡大していく。「歴史」は物語における再生可能エネルギーなのだ。
そこに「サイエンス」はない。だから「科学的(サイエンス)」とは言わない。しかし、歴史のほんの少しの間隙に豊かな物語空間を造り続ける営みは、充分に「思弁的(スペキュレイティヴ)」と言えるだろう。
現実が猛スピードで虚構に追い付きつつある現代において、SFは徐々にではあるが遠未来を幻視することが難しくなっている。ならば、近未来SFや歴史改変SFといったSF界での「水平的拡大」に生息地を求めるのではなく、一見すると異質だがその実類似した環境を持つ新世界への「垂直的拡大」を目指すべきだ。
そして、垂直方向に跳躍した「時代小説」というジャンルこそ、謂わばSFお得意の、そしてなお広大な「並行世界(パラレル・ワールド)」と言えるのではないだろうか。
というか。
筒井康隆は「筒井順慶」書いてるし小松左京も歴史小説書いてるし大好きな宮本昌孝もSF書いてたし夢枕獏も冲方丁も両方書いてるんだ。
だから、多分みんなこんなことを考えていたんじゃないかな。という想像での評論。